雑文集2022

今年はアウトプットがない.僕の私生活を知る人間からすればインプットもなかったことが分かるだろうけど.
去年も同じようなことを言っていたし,記憶が正しければ一昨年も同じようなことを言っていたので,”今年も”に訂正する.

アウトプットというのが具体的に何を指すかと言えば,入力された経験や知識を作品なり行動として出力することなのだが,僕は”ある事情”により不毛なループに陥っているためにいずれもない.

ただ文章を書いていないから,絵を描いていないから,動画を撮っていないから,仕事をしていないから,出力がまったくない.だとか,自分を省みることを怠った.という訳ではなく,Notesに脈絡もなく毎日毎日書き残していた.

それらをまとめると30万文字を超える超大作になってしまうので,関連トピックを数珠繋ぎにして今年の文章を振り返ってみようと思う.これは初めての試みで,春日武彦の「奇想版 精神医学事典」や中島らもの「しりとりえっせい」,ホフスタッターの”Gödel, Escher, Bach” や”Metamagical Themas”のようでもある.

実はこの駄文群をまとめるのは大変骨の折れる作業で,人様の眼前に晒すに耐えうるものを抽出し,メタ認知が暴走しないもののみに濾過し,幾分かの文飾を加えてひと段落.てきとうな珈琲でものむ.
そして強引でも構わないので,文章の共通部分を洗い出し,重複しないように並べていく.A ∩ B,B ∩ Cと折り紙で輪飾りを作るみたいに繋げていく.たまに交わりを持たない文章Dが存在するので,こいつには接着剤の代わりに適当な尾ひれをつける.そして珈琲をのむ.

そうして12月に入ってから毎日10分ずつ時間を取って編集されたのがこの一連の文章で,大晦日に公開するつもりが2023年を迎えてしまった.まだ推すか敲くか悩んでいるけれど.

浮世ヒッチハイクガイド

「浮世は風波の一葉よ」という一説を含む小歌が閑吟集に載っている.歌全体をみるとポジティブな印象を持った現世肯定の歌なのだけれど,僕はどうも侘しさを感じる.というのも夏を目前にして諸々の進捗が芳しくないし,このまま前に進んで砂上の楼閣を建立してしまうことを恐れているのか,惰性で過ぎ去る日々に虚しさを覚えているのか,対照的に得体の知れない”浮世”を前にしてケロッとしているこの歌がひび割れた精神を侵食してくる.

実際なんてことない.寝れば明日は来るし,突然交通事故で死ぬかもしれない.見知らぬ4630万円が振り込まれることもあれば,空飛ぶスパゲッティ・モンスターが大酒を飲むのを見るかもしれない.

RADWIMPSは「普通に生きて普通に死ぬ」と歌っていたし,Wordsworthは「浮世の些事があまりにも多し」と詩にのこしていた.
恐れている大抵のことはモノサシを変えれば些事であるし,たいそうな理想を掲げても普通に死ぬ.

この文章をツイートしたって誰も「浮世」を漢語読みする詩であることになんて気がつかないし,ここまでの文章が装飾だらけの「進捗なくて辛いンゴw」以上でも以下でもないことに気がつかない.

ちなみにこの小歌は「一期は夢よ ただ狂へ」で締められている.下半期は狂っていきたいね.

狂人について

「狂人」と聞いてどんな人物を思い浮かべるだろう.
大辞林で引くと「精神の平衡を失った人」大辞泉で引くと「精神に異常をきたした人」と載っている.
では精神の平衡が保たれている正常な人とはどんな状態だろう.難しい.

トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭には「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが,不幸な家庭は皆それぞれにちがっている」というのがあり,家庭環境や幸福論を論じる際によく引用されているのをみる.狂人に関しても同じである気がする.「正常な人間はすべてよく似たものであるが,狂った人間は皆それぞれにちがっている」だ.
ぼくが狂人の肩を持ちすぎているから,正常な人間を正確に分類できていないだけな気もしたけれど,みんなの中にある「正常」や「普通」から大きく逸脱した外れ値を狂人と呼ぶのだから,自明な一人相撲をとってしまった.
「何かしらの簡単な軸を設けて,正規分布の𝜇 ± 3𝜎収まっていないのが狂人とする」くらいの単純さがあれば,アニメPSYCHO-PASSのような世界が訪れていたかもしれない.

閑話休題.ぼくは狂人に関心がある.
この手の話題は言葉を慎重に選びながら書かないと火傷をしそうなので怖い.面白がって茶化すとか精神的なdelayの観測を目的化したい訳ではなくて,何が要因なのかとか,周囲に与える影響だとか,何を成すのかなどに特に関心を持っている.「狂人」という表現も便宜上使っているにすぎない.

ラヴクラフトを中心に築かれた文化であるクトゥルフ神話では,その小説群をコズミックホラーと呼ぶ.その構造はこうだ.(1)学者や作家などの主人公が謎と遭遇し,心をとらわれる.(2)調査するほどにおぞましい真実が明らかになり,古文書や不気味な生物などの証拠がそれを裏付ける.(3)悪夢や謎の襲撃者によって精神の平衡が失われる.(4)「邪悪なる未知の存在」との邂逅により,狂気に至ったり破滅や滅亡を匂わせて物語は終わりを遂げる.クトゥルフ神話はTRPGにもなっており,小説にはない要素としてSAN値(Sanity)というのがある.SAN値は0になると発狂状態となってゲームオーバーになるのだが,現実はそうではない.狂っても死に至る訳ではなく,生まれ持った意識は連続していく.

狂ってしまうと適切な治療を施さない限り自然と寛解することは滅多にないので,たまに適切な治療を施されないまま狂気じみた事柄を成し遂げる人たちがいる.

フランスの田舎に『シュヴァルの理想宮』という城塞がある.これは郵便配達員であるシュヴァルが娘のアリスのために独力で建設したものであり,小説や映画にもなっている.実物をみれば一目瞭然なのだが,夥しい数の”なにか”に覆われている.それは葉の裏をびっしりと埋め尽くす虫の卵のようでもあるし,動物の死体に群がる蠅のようでもある.本来「細部」とは「全体」があってこそなのに,宮殿では細部が全体を喰ってしまいそうにみえる.
シュヴァルは空間恐怖に取り憑かれていたらしく,精神医学界隈では残遺状態の統合失調症やパラフレニーの一種だという見方が強い.

シュヴァルの理想宮

世界最高の辞書であるOEDの編纂に多大なる貢献をしたマイナーという男がいる.こちらも『博士と狂人』という表題で小説と映画になっている.彼はもともと米軍の外科医であったが,脱走兵に烙印を押して処罰するなどの任務の末に心を病んでしまう(これについて証拠となる参考文献は見つけられなかった)その後,精神状態を改善するためにロンドンへ移り住むものの,誰かに追われているという妄想に取りつかれ,無関係の人間を射殺してしまい,精神病院へ収監されることになる.それから紆余曲折あって辞書の編纂で用いる用例カードを作成するボランティアを始めるのだが,これがものすごい量だった.のちにOEDの編集者であるマレーは”we could easily illustrate the last four centuries from his quotations alone”と述べている.ちなみに英国から米国へと身柄が引き渡された75歳のときにようやく統合失調症と診断されている.

シュヴァルは30年以上かけて,マイナーは10年以上をかけて,一つの物事に取り組み続けた.マイナーの場合は無関係の人間を殺めてしまったことへの贖罪という面もあったのではないかとされているが,いずれも狂いによって引き起こされた史実である.

上記の二つは統合失調症によるものだけれど,人格障害や発達障害に由来するものも興味深い.
現在は発達障害の認知度が上がったり,統合失調症患者がインターネットで奇妙な行動を晒して話題になったりするので,これまで以上にそういった人々が身近になった.彼らをやたらと馬鹿にしたり,逃げ口上に診断されてもいない発達障害を武器にする人々は苦手なのだが,詐病はやがて現実を飲み込むことがある.

徒然草の一説に「狂人の真似して大路を走らば,すなわち狂人なり」というのがあって,精神科医の式場隆三郎は『詐病の鑑定』というエッセイの中でこれに「健康な精神の持主は詐病によって自分を有利にしようとは企まないし,ばかの真似はしない.そんなことをやること自体が,もうおかしいのだという意味は,今も通用する」と付け足している.

苦しんでいる人がいるのに逃げ道として(未診断の)発達障害を利用する人々についてはやはり好きになれないが,詐病に侵食されていく過程というのが観察できるという視点でみれば看過した方が良い問題なのかもしれない.

・『博士と狂人』の映画は史実との乖離がありすぎるので観なくても良いと思った.
・シュヴァルの娘の名前が思い出せなかったので,[シュヴァル 娘]で検索したらウマ娘で溢れかえって愉快だった.シュヴァルはフランス語で「馬」という意味なのを忘れていた.

詐病など

詐病について考えることがたまにある.SNSでの観測量が増えていることと,次男という身近な例があるからだ.
ここでいう詐病とは,未診断でありながらも特定の病名を利己的な意図のもと演じたり称することを指す.僕の中での定義なので辞書的な説明とも医学的な説明とも異なると思う.

身内の諍いにあれこれ書くのも品位に欠けるのでオブラートに包むが,次男の場合はあらゆる口実に発達障害を利用する.彼はそもそも未診断であるし,WAISなどを受ける気もさらさらない.客観的にADHDや睡眠相後退症候群の可能性がないこともないが,本人に治す気がなく,それを逃避に利用するのだから困っている.

格差が視覚化されて複雑になる過程で変化に適応できない層が出てくるのは当然のことだし,ぼくも23歳(メモ時点)で定職に就かずに遊んでいるのだから偉そうなことは言えないが,社会不適合が時代のアイコンになってしまっている現状は良くないと思う.

本当に治そうと苦しんでいる層とファッションとして纏っている層との境目が曖昧になってきているし,治療を受けるべき人間に適切な治療が施されにくくなっている.それに病をファッションとして纏う層は拡大しているように感じる.江崎びす子の「メンヘラチャン」あたりを発端として脈々と続くこの文化はもはやサブカルチャーではないのかもしれない.

困っていない健常者がファッションとして「病」や「不適合者」を自称するのは,あえて弱みを晒すことで相手との距離を縮めたり,失敗や欠点をすべて病のコンシーラーで塗りつぶせてしまうから,コミュニケーションにおける頓服として優秀なのだと思う.承認欲求は満たされるし,自尊感情は傷つかない.

三島由紀夫はやたらと弱みをさらけ出す人間のことを無礼者と言ったらしいけれど,これには概ね同意で,実際に患っているのならともかくファッションで纏わないでほしい.

承認欲求とTiktok

ひょんなことから友人とTiktokを始めたら,あれよあれよという間にフォロワーが100万人を超えた.
僕はあくまで脚本などを書く裏方なのだが,間接的にインフルエンサーからみた景色を覗けるようになった.様々な思惑が交錯していておもしろい.

僕はもともとTiktokを忌避していた.それは浅い理解によるもので,いま振り返ると老害の門前にいたのかもしれない.
ByteDanceの作り出したレコメンドアルゴリズムは面白い.Youtubeと異なり動画の性質から逆算してユーザーのタイムラインに表示するので新規参入者にもチャンスが平等にあり,撮影から編集までもが同アプリ内で簡単に行えるので参加ハードルが他の動画投稿プラットフォームと比較して極端に低い.

当時の僕が苦手に感じていたのは,”インターネットに明るくない層”の流入によるものな気がする.
なんというかGeekでもNerdでもなく,活字が読めず創作ができないために,限りなく現実に近い情報伝達手段である動画(それも短尺)で馴れ合うためのコミュニティだと勘違いしていたのだった.

Tiktokに動画を投稿するユーザーのほとんどは承認欲求で駆動している.コンテンツが面白くなくてもアルゴリズムは平等に機会を与える.Tiktokの神様はアルゴリズムで,みな口々に「fyp」と唱え,歌とダンスを捧げる.そうして信奉者のなかから”いけにえ”が選ばれる.いけにえの名前はインフルエンサーだ.

しかし,ここから成功者へと転じるケースもある.ただ残念なことにそれは全体の10%に満たない.
その理由は(1)コンテンツ力がない,(2)マネタイズへの意欲がない,(3)他のプラットフォームへの誘導が下手.これらの三つに大別できる.

そもそもTiktokは単体で稼げるようにできていない.くだんのアカウントも100万フォロワーでようやく1,000£に達した.
つまりIGやYoutubeなどへの誘導が不可避であり,(1)や(3)に該当するものはTiktok内でのアドアフィ案件くらいしか降ってこない.
僕が気になっているのは(2)のケースで,パトロンが付いていたり,出会いを求めている場合を除くと,承認欲求ゾンビのみが残る.

Tiktokはフィードバックを行う.コメント,再生数,いいね,シェア数.これらが表面的なもの.
視聴者からは見えないところにもう一つのフィードバックが存在する.それが動画そのものだ.Tiktokの投稿機能を使ったことがある人ならわかると思うが,デフォルトで小顔,美肌などの補正がつく.それに見慣れてしまうので加工を追加していき,現実との乖離が他のセルフィーアプリ以上になってしまう.ちなみに僕は荒木飛呂彦の作画になってしまった.

アルツハイマーの対鏡症状に鏡に映った自分を他人だと思い込むというのがあるが,それの逆である.ディスプレイに映っている(実質的に)他人を自分だと思い込んでいるのだ.
人間の自己愛が他者のイメージに依拠しなければ成立しにくいのは,左右反転した自己像という偽のイメージによって最初の自己認識を果たすからだと斎藤環の著作に書いてあった気がする.ゆえに他者からの承認を必要とするのだが,加工によるフィードバックは鏡像と異なり,バフのついた承認によるバフのついた自己愛の成立だ.

僕はバフのついた自己愛の持ち主は=醜形恐怖症という訳ではないと思っている.

ここまでの文章は6月のメモで,ここからは編集時に追加したもの.
書きかけで半年も放置していたので,前半と後半の繋がりも無茶苦茶だし,着陸するポイントを見失った文章になってしまっている.これは書きかけなんだろうか……

広げた風呂敷をむりやり畳んでみる.
エッフェル塔嫌いのモーパッサンはパリで唯一エッフェル塔を視界に入れずに済む一階のレストランに通ったという話がある.
僕がTiktokを苦手でなくなったのは,すでに内側にいるからかもしれない.

現代の貴族とインフルエンサー

インフルエンサーには二種類いる.余暇か生業か.
国内では例証を挙げられないが,余暇のインフルエンサーに共通するのは,あらゆる方法で閑暇を誇示すること.ここでいう閑暇は怠惰や無為を意味しない.
いわゆる成金と異なり,散財ではなく閑暇の誇示に終始しているのが興味深い.
ヴェブレンの『有閑階級の理論』によると,文化が発達すると英雄的行為を誇示するために階級,称号,地位,勲章など,名誉の印を身につける習慣が登場する.
代々続く貴族や資産家の息子・娘がフォロワーの獲得に躍起になるのはなぜだろう.もしかすると国境や特定階級を超えた定量的な名誉として機能し始めているのかもしれない.
ちなみにマハラジャであるPadmanabh Singhの乗馬はかっこいい.

ずぼら貴族と紅茶

今年の春頃から,僕の中での紅茶の消費量が珈琲を上回った.
以前から飲んでいなかったわけではないが,Coffee breakの文化があった我が家では紅茶への関心が薄く,高校に入るくらいまではアールグレイくらいしか知らなかった.
一昨年あたりからだったか,Ronnefeldtの茶葉やLUPICIAのティーバッグを友人から頂いたりして,紅茶への興味が急速に増した.
それからというもの,「紅茶の違いをわかりたい」という凡俗な考えに基づき,高貴な気持ちでMariage Freresを飲んでみたかと思えば,デカフェのCELESTIALをがぶ飲みしたり,アフタヌーンティーでTWG Teaを飲んだかと思えば,TEARTHの甘ったるいセイロンティーを飲んでみたり,ティーモンスターとなった.

ティーモンスターとなった僕は残念なことに高貴な舌を持ち合わせておらず,安い紅茶を日に5杯も胃に流し込むだけの単純作業に勤しんだ.
安いティーバッグから漏れ出した茶葉は長い時間をかけて舌の味蕾を埋めていく.やがてその舌に凹凸はなくなり,伽羅色に染まって甘い香気を放つようになった.
人々がティーモンスターを見る目は哀憐なものから羨望へと変わっていき,「沈香舌」と評する者も現れ,ティーモンスターは一躍ブームとなった.
真似して紅茶を大量に飲む者も現れた.ある若者は半日に紅茶を43杯も飲んで急性カフェイン中毒で死亡し,ある資本家は良い茶葉を手に入れるために株をすべて売り払った.

そして事件が起こりブームは終焉を迎える.ティーモンスターが死んだのだ.
死因は舌の内部の筋肉繊維,リンパ管,血管腫が肥大化したことによる窒息死だとされ,多くの人々が悲しみ国葬が実施されることになった.
その亡骸からも筆舌に尽くし難い香気が漂っており,そのとき担当した湯灌師や納棺師はその時の香りを「極楽浄土の風だった」と振り返っている.

少し嘘をついた.僕の舌はまだまだピンクだし,死んでいない.
このあと「沈香舌」が遺体から盗み出される話をしようと思ったけれど,僕はティーモンスターではないので本人に訊いてくれ.

とにかく紅茶をたくさん飲んだのだ.
その結果分かったことは,紅茶を淹れるのは面倒くさいということ.ティーバッグの紅茶の方が安いということ.ブランド紅茶だから美味しいという訳ではないということ(特にWedgwood)

今年もっとも美味しかった紅茶はTWGのWinter Palace Teaでした.めでたしめでたし.

Wedgwood

ジャスパーシリーズの花瓶と小皿

Wedgwoodジャスパーシリーズの花瓶と小皿を手に入れた.ウェッジウッドブルーと呼ばれるペールブルーではなくポートランドブルー.

ただ,はなから花瓶を買おうと思っていた訳ではない.
僕はティーカップを買いに出かけたのだ.デパート激戦区の名古屋では何処にでも洋食器の店が入っているのだけれど,僕はいちばんひと気のない,もとい落ち着きのある松坂屋本館6Fの雰囲気が好きでたまに訪れる.

お膝元なだけあってか名古屋ではノリタケの勢力が強い.祖母は終戦後に務めたこともあってかやけにノリタケ贔屓だ.父は洋食器全般が好きで,実家では出張先で買ってきては飾り棚では埃をかぶったロイヤルコペンハーゲンやリモージュが眠っている.母も料理研究家だったので食器にはかなりの拘りがあったようで,我が家は陶磁器に関して少し恵まれた環境だったように思う.

そんな中で僕はロイヤルウースターだとかウェッジウッドのジャスパーなんかが好きで,マイセンの良さはまだ分からないけれど大人だなあと思う.

まあ太陽が眩しかったのか何だか知らないけど,気が付いたら花瓶と小皿が手元にあった.
小皿にはNOSE SHOPの香水ガチャで手に入れた小さなアトマイザーや鍵なんかを放り込んだ.
花瓶にはハルジオンとかシロツメクサみたいな白い花をつける雑草でも庭から千切ってきて飾ろうかなと思ったけれど,これじゃあ猫に小判.花瓶が浮かばれないので近所の花屋で勧められるがままに黄色い菊を買った.まあ悪くはない.

ティーカップはまたいつか.

花と精神衛生

ぼくが漠然と植物が好きなのは,きっと幼少期に牧野植物園の年パスを持っており足繁く通いつめていたからだろう.まったく情操教育とは大したものだ.
漠然とと言ったものの,樹木に対しての解像度は高いと自負している.生家の近くにあった森林試験場でよく松ぼっくりを拾ったり,ラクウショウの球果を弟とぶつけ合って手がヤニでベタベタになったりもした.とりわけ針葉樹が好きで,軽井沢や札幌に住みたいといったような願望もそこに起因する.

ただ東京に住み始めるまで花については何の知識もなかった.洒落臭いことをしたくて青山フラワーマーケットで言われるがままに花を買ってみたり,Nicolai Bergmannをギフトとして選んでみたり,それくらいの俗っぽい解像度.

野山に咲くような花に興味が出始めたのは牧野公園でみたバイカオウレンだった気がする.腐植質でじめじめした場所に苔なんかと一緒に生えていて,紅一点ならぬ白一点という感じ.その時のメンタリティがそうさせたのか,とても印象に残っている.

もちろん旧古河庭園でみた薔薇だって,東山植物園でみた蘭だって綺麗なんだけど,野山の花には機能美みたいなものがある.人間の手によって品種改良されていない,人目に付いて品評されることを前提としていない,進化の末にそうなっただけであるという素朴な美しさ.

うっかりナチュラルリンダリンダしそうになってしまったけれど,いまはそういう時期らしい.

花を踏むフェティシズム

4chanに(BDSMの文脈における)「Mistressがピンヒールで薔薇を踏み散らかすgif」が貼られていて,なぜか心を揺さぶられてしまった.
独立したフェティシズムの領域としてCrush(あるいはTrampling)やWet and messy(以下WAM)というのがあるけれど,いずれにも該当しない.

Crushではナメクジやゴキブリなんかがぺちゃんこに潰されて死ぬのだが,フリークはナメクジ側を主体とする.そこに100%の感情移入は存在しない.この領域のパイオニアであるJeff Vilenciaは「ぼくらが殺すのは感情移入できないような不快で有害な生き物だけです」と述べていることからも分かるように,ちっぽけで力のない虫けらを潰して亡き者にすることにカタルシスを覚えているのだ.

ここまで書いてきて『変身』のグレゴール・ザムザとの関連性に気がついた.グレゴールは惨めな虫であり,最終的に見捨てられて息絶えてしまう.その後,彼(正確には虫)のことはなかったかのように将来の希望を語らうのだが,構造がとても似ているのだ.語彙が足りないので「スケープゴート」くらいしか思いつかないのだが,Crushというフェティシズムからはそういった含意を読み取れる.

関係ないけれど,今年の2月に川島隆が翻訳した『変身(角川文庫)』では,これまで「虫」「害虫」「毒虫」とされてきた表記が「虫けら」になっており,100分de名著で共演した伊集院光はのちのラジオ番組内でその訳を絶賛していた.曰く「これまで虫という訳で読んできて,導入から腑に落ちないまま読んでいたけれど,虫けらに置き換えた途端に感情移入ができるようになった」と.ぼくもこれには納得した.

これもなんとなく気が付いた事なので関連性があるかないか分からないが,マゾヒズムの語源となったマゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』の主人公の名前もグレゴールだし,『変身』文中の母親が気を失ってしまうところで,グレゴールがへばり付いていたのは『毛皮を着たヴィーナス』だった.
モンブラン社の万年筆で作家シリーズというのがあり,フランツ・カフカ・モデルにはチャバネゴキブリが彫刻されている.(カフカによる「虫」の抽象化には反するが)当時の西ヨーロッパにおける「虫になったザムザ」の共通イメージとしてゴキブリが意識されていた可能性があるという.おっと,そういえばAmerican journal of the crush freaksのタイトルにも……

さて,Crushと近い概念にTramplingというのがある.これはBDSMの下位概念の一つで,Crushと異なり主体への感情移入が存在する.これの下位概念にGiantess fetishismやMacrophiliaというのがあり,これらも同様に主体への感情移入が存在する.

WAMは水やローション,チョコレート,泥,絵の具なんかでずぶ濡れにすること・されること・その行為をみることに対するフェティシズムで,排泄物を主題とするScatologyとは明確に区分される.フェティシズムとしてのパイ投げやSploshも近接する概念として知られている.
誰もが恋人同士,お互いの身体にチョコレートやアイスクリームを塗りたくったことがあると思う.え?ない?オタクは砂の山になって消えてしまった……

意外と知られていないのがWAMの下位概念に位置するWAM Shoesだ.日本語で言うところの「靴いじめ」に相当するこのフェティシズムは,靴を徹底的にいじめ抜く.PRADAやManolo Blahnikのヒールを履いたまま登山をし,砂浜を走り,ときには鎌でズタズタに切り裂く.これは対象が靴のSM派生ジャンルでもあるのだ.この場合のエロティシズムはタブーを犯して鬱憤を晴らすところにある.

本題は「Mistressがピンヒールで薔薇を踏み散らかすgif」である.ぼくは踏み散らかされた薔薇にも,ピンヒールにも,Mistressにも感情を移入している訳ではない.WAM ShoesでみられるようなSMの派生の可能性もあれば,無意識下で薔薇に対しての(陰性)転移があるのかもしれない.いずれにせよ綺麗な薔薇が粉微塵になる様が琴線に触れたのならばあまりよろしい精神衛生状態ではないのかもしれない.

ここまでの文章は9月のメモで,ここからは編集時に追加したもの.
いま思えば,単純なSMの派生でしかない.
そういえば『ドイツ文学の道しるべ ニーベルンゲンから多和田葉子まで』によると,マゾッホによるカフカへの文学的影響が指摘されていた.ぼくのオタクとしての慧眼を誉めてくれ.

君に踏まれると葡萄酒になってしまう

標題の言葉は出典不明で,ぼくが遥か昔に思いついた気もするし,誰かの詩集で読んだ気もするし,匿名掲示板の何気ない戯言だった気もする.
脳にこの文字列がインストールされた経緯はどうであれ,とても気に入っている言葉だ.

ぼくは,感覚の話ができる友人が少ないなと常々思っているのだけれど,君はどうか.
抽象的なものはいくつかも物事から共通項を抜き出して一般化することができる.ゆえに再現性がある.
しかし「孔」と「ダルメシアン」,「海」と「アーティチョーク」などの言葉の取り合わせが心地よく感じたり,「buns cheese meat patty わたし きゅうくらりん」や「可乐 普洱茶 葡萄酒 わたし きゅうくらりん」のようなテーマに沿った替え歌(言葉遊び)の音のはめ方に対する執着だったり,その感覚を共有できることは簡単なことではない.

感覚の話についてこれたり「ない話」ができる友人は大切にした方が良いと思う.それは意図して出会うことが難しいし,後天的にどうこうできるようなものではないからである.こういったことに面白さを見出すのにはたぶん様々な意味合いでの「余裕」が必要で,才弁縦横だからこなせるとか,そういったことではないんだと思う.

言葉の取り合わせなどに限った話ではない.音や色,形だって同じで,補色なんかと別軸で相性の良い色と形の取り合わせが存在しているような気がしている.
児玉まりあは言っていた「言葉は人の心に効くわ 人の心にしか効かないけど 猫の心にも通用しないし 石ころも動かせない 現実の威力をもたない 人間の心を動かすためだけの単なる信号 高度なコードよ」
「高度なコード」の中には実行環境を用意しないと動作しない(額面通りにしか受け取れない)ものが存在していて,その実行環境こそが感覚の有無なのかもしれない.

ここまでの文章は12月頭のメモでここからは編集時に追加したもの.
言葉でものごとを伝えられるのはもともと錯覚で,無神経な人々がそれを忘れて使っているだけにすぎないと思う.
けれど,言葉の形のために言いたいことを選びはじめると主客転倒.それは社会からの脱落を意味する.ぼくはたまに脱落しかける.

恋人のイデア

『児玉まりあ文学集成』という漫画がある.既刊は3巻までで,平積みにしたら相転移して恋人へと姿を変えた.
「児玉まりあ」という人は,ぼくがページを開くまで存在しなかった.や,イデアなので存在していないし,実態を伴われると困るのだけど.

ともあれ,この漫画はすごい.三島芳治(作者)はすごい.まさかはじめて純文学を読んだときの雷に打たれたかのような衝撃を味わうとは思ってもみなかった.
児玉まりあが「光あれ」と言えば,光があるような.光を昼と名付け,やみを夜と名付けるような.限りなく広がる世界に言葉で輪郭を作っていくような.
辿り着くことのない理想というか,すべてのしがらみから解放されたときの最高の恋愛の形態が描かれている感じがする.

漫画,情報量と修辞

小学校の同級生がジャンプ作家になった.彼は小学生のころから漫画家を,それもジャンプ作家を目指していて,それを成し遂げた.
本人は謙遜しているけれど,軸がブレることなく目標まで辿り着けることはそうそうない.尊敬している.

さて,ぼくと漫画との付き合いは小学生のことからどう変わっただろうか.
小学生のころは前述の彼の影響でジャンプを読み,とりわけ彼の推していた鳥山明作品に最初にハマった.『Dr.スランプ』から始まり,『ドラゴンボール』『サンドランド』など,似たジャンルを開拓するというよりは特定の作家をDigるような探求の仕方をしていたのだ.

その後,『こち亀』にハマり,おもしろさに加えて情報量や修辞の塊であることを望むようになっていった.
中学校へは行っていないが,その間にこち亀を全巻揃え,父親の書斎にあった手塚治虫作品や『ゴルゴ13』を読むようになった.ただ,中学生のころは漫画を読んだ記憶はあまりなくて,インターネットや映画や読書に大半の時間を費やしたような気がする.

高校に入る前くらいから2chまとめをはじめて,それなりに跳ねてある程度お金に余裕ができたので,だいたい週末になると一万円を握りしめて金高堂(地元の書店)とBOOKOFFをハシゴして,漫画と普通の書籍を半分ずつくらい買うような生活をはじめた.しかし,この時には冷笑カスオタクになってしまっていたので,流行りの『進撃の巨人』なんかには目もくれず,ビニールのかかった中身のわからないサブカル漫画をパケ買いするギャンブルが中心だった.

そのときに出会って今でも好きな作品のBest5に入るのがつくみず氏の『少女終末旅行』である.吉岡昭仁氏の『地球の放課後』や駕籠真太郎作品,新堂エル作品に出会ったのもこのサブカル期だったと記憶している.AKIRAやナウシカあたりのオタク義務教育もこのころにようやく修了した.

大学に入ってからはピタリと漫画を読まなくなってしまった.というのは少し嘘で,他に楽しい遊びを覚えたので漫画から遠ざかっていただけな気がする.
その後は読書はしても漫画は読まずという期間が長く,先述のつくみず氏の新作『しめじシミュミレーション』をきっかけにポツポツと触れる機会が出てきたのだった.

やはり一貫しているのは漫画の持つ情報量と致死量の修辞を含んでいること.いままで小説と映画・アニメでしか触れてこなかったSFなどの分野も漫画に求めるようになった.情報量を持っている例としては施川ユウキ氏の『バーナード嬢曰く。』や『鬱ごはん』なんかがわかりやすい.こち亀のうんちく回くらいの文章量がある.

じゃあ本を読めばいいじゃないかと思われがちだけれど,それは違う.ぼくは漫画と情報量との組み合わせは良いのではないかと思っている.
文学などを漫画に起こしたりするのはあまり肯定できない.たとえば「あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波。」という文字列から何を汲み取ってどのような情景を思い浮かべるだろうか.とうぜん三者三様である.
また「ああ、ロミオ様、ロミオ様! なぜあなたは、ロミオ様でいらっしゃいますの? お父様と縁を切り、家名をお捨てになって! もしもそれがお嫌なら、せめてわたくしを愛すると、お誓いになって下さいまし。そうすれば、わたくしもこの場限りでキャピュレットの名を捨ててみせますわ」という台詞をあなたの脳はどんな声で再生しただろうか.とうぜん十人十色である.

ラジオ番組も同様の理由で好きなんだけれど,視覚情報を制限することによって読み手・聞き手の想像の余地は千差万別.限りなく広がっていくに違いない.

さて,それと情報量云々がどう繋がるのか.(すべてとは言わないが)情報量の多い漫画は小説というよりもエッセイだったり評論的な色が強くて,扱っているトピックも具体的であれ抽象的であれ,わりと特定のものを指していることが多い.不定冠詞”a”なのか定冠詞”the”なのかみたいな違いに近いかもしれない.

つまり,読み手の想像の余地は少なくなり,事実と事実の繋がりがより明確になり,素直な解釈と理解につながるのだ.それに,お気持ち程度の文飾に使われている「読まねばならない行間」だって可視化してくれる(これは一概に良いとは言えないけれど)

修辞に関しては簡潔に言い表すのが難しい.多ければ良いというものではなくて,調和だとか作品全体を俯瞰して見たときの心地よさのようなもの.寓話が散りばめられていたり,表現が美しいだけで解体してみると何も残らないようなものだって良い.

これにあたるのが三島芳治氏の『児玉まりあ文学集成』や同作者の『レストー夫人』『ヴァレンタイン会議』『ガールズコレクション』なんかで,繊細で大きなテーマを扱っている訳ではないのに,ぼくの心をいとも簡単に掌握する.

SFだと八木ナガハル作品が特によく,たとえばスペースコロニーなど想像の余地を残す必要のない場所を描き,抽象的で読み味を深くしたい場面で具体的な表現を省くなどの工夫が見られた.作者の性癖もあらゆるとこに垣間見れたが……肋骨凹助の『宙に参る』はSFではあるけれど日常みのある作品で,心情の変化に焦点を当てているのが現代っぽいなと思った.別にセカイ系でそのままどうにかなってしまう訳でもないし.

サブカルだと『家畜人ヤプー』や駕籠真太郎作品を再読するなどした.ヤプーはマゾヒズムコンテンツの金字塔として知られており,SFの分野にまで名を馳せる.チビくろさんぽなんかとは比にならないくらい差別的だし,自尊心の肥大した男性は読まない方が良いと思う.でもぼくはこの作品が気に入っており,NTRなんかよりも精神的な強姦を受けたような気分になる.こんなコンテンツは唯一無二だ.

まあ,そんなこんなでこの歳によってようやく自分の好きな領域を把握できてきた.
ジェネラリストよりスペシャリストの方が良いらしい.ぼくもそんな気がしているから,自分の「好き」を内観して嗜好を理解して極めていきたい.

ここまでの文章は8月のメモで,ここからは編集時に追加したもの.
これは今回のメモ群の中で一番醜いかもしれない.このダラダラ続く文章を他人に見せるわけでもなく書いていた自分の精神構造がおそろしい.仮に誰かに見せるためだったとしても,「ぼくの好きな本,お前にも読んでほしい.ぼくのオタクとしての漫画のセンスはどうだ!」という気持ちが透けて見えて気持ち悪い.偉いのは作者であってお前はではない.こんなオタクは滅びて然るべきだ.「肥大化した自意識を纏いしオタクよ,滅びよ……」そう唱えるとオタクは風と共に去っていった.

ボカロ曲の余白

今日は電車や徒歩での移動が多かったので,久しぶりにボカロ曲をしっかりと聴いた.
熱心にニコニコランキングをチェックしていた’10年代前半と比べて,オタクみの抜けて詩的だったり,フェミニンな印象の曲が増えた気がする.

詩的な曲の特徴は,日常に溢れている語彙の取り合わせを重視した上で,いくつかの造語やトリッキーな語彙をスパイスとして詩的な世界を展開する.ここで言うトリッキーというのは普段その文脈に混じることのないもの,たとえば舞台が冬で「石油ストーブ」の話をしているときに現れる「クワガタムシ」みたいな風にね.
どことなく現代短歌に似ているかもしれない.「出来ることはないって管制塔にはやく伝えてよ、壊れたリリックで(第三滑走路11号 青松輝)」とか.
『ポストシェルター(稲葉曇)』のサビは「にわか雨で濡れていた 読めないくらい滲んだ言葉 ポストの中で雨宿りさせて欲しいの」と難解な語彙は含まれていない.その代わりに「ポストシェルター」という造語一つでその世界に惹き込まれる.
『炉心融解(iroha)』なんかはこの系統のパイオニア的な存在であると思っていて,「エーテル麻酔」「核融合炉」「アレグロ・アジテート」あたりが良いスパイスになっている(東日本大震災後はいろいろな文芸作品で「核」に触れられる機会が増えたから,核融合炉は手垢のついた語彙な気がしてしまうけれどそんなことはない)

フェミニンな曲の特徴は,ほんわかした印象で耳触りが良いものの,しっかりと歌詞を聴くと,自己肯定感が低い自分が不甲斐なさを抱えたり,手に届くしあわせを求めて模索したりといったものが多い.希死念慮を匂わせたり,メランコリックな気持ちをかわいさでコーティングしてあるのが,なんともいまっぽい.
たとえば『くうになる(MIMI)』『さよならプリンセス(Kai)』『きゅうくらりん(いよわ)のAメロ~サビ1』などがこれにあたる.きゅうくらりんの場合はドキドキ文芸部を踏まえた考察などがあり,それを考慮すると聴き方が変わってしまうが,ボーカル(主人公)の精神面には通底するものがある.ちなみにほんわかと言ったもののBPMはいずれも早い.
関係ないけれど,かつてのボカロ曲の中に希死念慮が含まれていることもあったものの,自己嫌悪からくる逃避を「救済」という言葉で安易に飾ったりした後ろ向きなものではなくて,心中のようなある種の美しさが含まれていたような気がする.

では「オタクみ」が何を指すのかと言えば,やたらと難解で衒学的な語彙(心理学・哲学あたりが多い)を使用してみたり,二字熟語・四字熟語を多用して韻を踏んでみたり,早口で捲し立てるように歌ってみたり,BPMが非常に早かったりということである.
たぶん「ボクは生まれそして気づくネットゲーム世界は今日も,煙る蒸気喧騒の目でワンツーステップで女子力上げたら,どうしようもなく二つに裂けた身内環境を制御するために断頭台から飛び降りて,息を止めるの,いま.」という支離滅裂な歌詞でもポップなビートにのせれば聴けてしまうんだろう.

で,本題は「余白」についてである.
ぼくは余白を愛する.余白がなければ何も生まれないからだ.ちょっと格好つけた.
ここからは,ぼくという気持ちの悪いオタクの妄想独りよがりが始まるので,妄想税を払った上で真に受けずに読んでほしい.

突飛な話だが「空間畏怖(空間恐怖)」というのを聞いたことがあるだろうか.
高所恐怖や閉所恐怖など神経症レベルのものではなくて,心的傾向の一つだと捉えてもらえれば良い.美術史家のウォリンガーは『抽象と感情移入』のなかで有機的な美の中に自分の満足を見出す「感情移入衝動(Einfuhlungsdrang)」を美的体験の前提として,それの反対を「抽象衝動(Abstraktionsdrang)」としている.
またプリミティブな抽象装飾芸術において「文様が表面をすきまなく充填しているのは空虚であることを恐れた結果」であると説明した.
我々日本人にとって,プリミティブな抽象装飾芸術として想起しやすいのは火焔型の縄文土器や唐草文様などだろうか.

笹山遺跡出土_火焔型土器

さて,実は妄想型統合失調症患者の絵には構図が弱いという特徴がある.他にも非整合的な空間構成,力動的な曲線の多用,アイテムの唐突な組み合わせ,ディテールへの固執などが線描の特徴として挙げられる.
たとえば鳥獣戯画みたいな絵を想起してほしい.描かれたものが互いに緊張感を生んで余白があっても不完全な印象を受けない.これは構図のバランスが余白を空虚にみせないようにしているという訳だ.ところが統合失調症患者の絵では,余白は無意味で空白なエリアという印象になってしまう.いかに一つ一つの物体が上手く描けていたとしても一枚の絵としてみると不自然で不完全なものに見えてしまうのだ.

彼らも構図がおかしいことには気がつけるのだが,緊張感に満ちた構図を作り出すことはできない.その結果,隙間をびっしりと埋めるような絵が生まれる.水玉や網目で余白を埋めた草間彌生の絵などがわかりやすい例だろう.

ぼくはこれを空間以外にも敷衍して論じることができるのではないかと考えた.なんども言うけれど,これ話は一つ一つエビデンスに基づいて検証したりした訳ではないから,信憑性は乏しい.分かったならもう一度妄想税を払いなさい.

つまり,余白を恐れて隙間を満たしてしまう行為は音楽や文芸作品なんかでもみられるのではないかと,そう考えたのだ.

少し話が変わるが,インターネット掲示板なんかでは「特有のこだわり」なんかと揶揄されることもあるようにASD患者には特定の物や形式に対しての強いこだわりがみられる.現代的では語の意味が変容してしまったが,’80~90年代の「オタク」はフリークやマニア的な要素を含むコンテンツに対する態度であったような気がする.(1989年に出版された『おたくの本(宝島社)』を読むと,当時のオタクの特徴に迫ることができる)

誤解を恐れずに書くと,オタクと発達障害は親和性が高いのではないかと考えている.同じことを考えている人は多いだろうし,オタクカルチャーの拡大で定型発達の人間が多く流入したから語の意味が変容したのだという説明もつく.

また,ASDと妄想型の統合失調症は症状が似ており,併存する割合も高い.非常にラディカルな主張なのは承知だが,先述した「オタクみ」のあるボカロ曲について,なぜぼくが「オタクみ」と形容したのかの答えがこれなのではないかと思う.

いずれしっかりと余白をとっかかりにして「オタクみ」や「オタクっぽさ」の正体に迫りたいと考えているけれど,しっかり裏をとらないと差別的になってしまうので慎重にならなければならない.

ここまでの文章は12月のメモで,ここからは編集時に追加したもの.

編集時,空間畏怖(空間恐怖)の定義と援用に苦労した.ウォーリンガーは表記揺れが多すぎて一つずつ調べるのが大変だし,図書館の書庫から引っ張り出してもらった『抽象と感情移入』にも『ゴシック美術形式論』や,リーグルの『リーグル美術様式論』にもほしい記述が見当たらなかった.
仕方がないのでGoogle scholarで空間畏怖などについて記載された文章の引用から孫引きしてやろうと考えたのだが,ふと澁澤龍彦が幻想芸術云々の文脈で空間恐怖について触れていたことを思い出して何冊かペラペラと捲っているとあった!『澁澤龍彦玉手匣』のなかに『澁澤龍彦全集3』からの引用文「空間恐怖」が載っていた.蔵書が多いことは悪いことばかりではない.

手前味噌だけど,冷静になってから読み返してみても面白い文章だなと感じる.空間畏怖を軸にオタク論を展開している人って他にいるのだろうか.なに?お前の文章も空間畏怖が見え隠れしているぞって?そういえばぼくも診断済みなんだよな.

何気ない毎日を色付けるテクニックとオルタナティヴ・ロック

音楽の嗜好がガラリと変わったのはSoundCloudでまだ数十回しか再生されていないポップしなないでの『エレ樫』を聴いたときだと思う.
それまではどんな気持ちでどんな音楽を聴いていたのかあまり覚えていないけれど,歌詞がなかったり,あっても意味がなかったりする類のものだろうと思う.

相対性理論,羊文学,きのこ帝国なんかのオルタナティヴ・ロックの思想だったりアート性を前面に押し出したものを好むようになってきた.ポしなの場合もセカイ系を自称していたりするけれど,オルタナ・ロックにカテゴライズされるだろう.そうだ,7年越しのメジャーデビューおめでとう.

個人的な趣味として一つの曲は連作でない限り物語を完結させてほしいと思う.だからぼくはアーティストと作品に過度の繋がりがあると拒否反応を示してしまう.ディズニーランドに住もうと思っていて,普通の幸せにケチをつけるのが仕事のあの人の作品が受け付けなくなったのはそのせいだろう.
いま書いている散歩の本とも繋がることだけれど,普通の幸せというのは溢れているからこそ拾い集めるのが難しい.みんな意識していないだけで,何気ない毎日を色付けるテクニックをいくつか持っているんだと思う.それは普段と異なる道で駅まで行くことや,動物にみえる雲の写真を撮りあつめるようなこと.
そういったテクニックをたくさん持っている人は人生を楽しむ才能がある人だろう.すごく豊かだと思う.

オルタナ・ロックにはそういった豊かが感じられるし,小説みたいな読後感があったりするから好きなんだろうか.
それとそういった作品には強いメッセージがなくともパンチラインが存在する.それは必ずしも主題ではないし,問いかけであったりすることもある.その時の精神衛生によって意味合いが変わる聴くロールシャッハテストのようだ.

カネコアヤノの『ロマンス宣言』のような生活を標榜して,andymoriの『1984』みたいにノスタルジアの中からエネルギーを抽出して未来へ進む動力にしたい.

∴さんぽ

拝啓 早星の候,梅雨があけ傘を持たずに出かけることのできる季節になりました.散歩はしていますか?

勤勉に働いていますか.それとも怠惰な生活を送っていますか.いずれにせよ足りないのは散歩でしょう.
最後にあてもなく歩いたのはいつですか.心労が癒えませんか.そうです,散歩に出ましょう.

準備をするのが面倒ですか.そんな気力はないですか.何をしたら良いのか分かりませんか.
そうですか,格好なんてなんでも良いです.夜なら闇に溶け込めます.駅から家までの帰り道に「動物の絵」が何個あったか数えてみてください.

誰ですか散歩にバイタリティが必要だなんて言った阿呆は.誰ですか散歩にお金が必要だって言った馬鹿は.誰ですか散歩を高尚なものにしようとするまぬけは.

定義なんてないんです.散歩がなにかなんて考えなくても良いです.
内側に耳を傾けても外側に耳を傾けても良いです.いろいろなことが整理されて分かってきます.

ええ,もちろん走ったって良いです.百均のピクニックシートがあれば横にだってなれるでしょう.
ええ,お酒を飲んだって良いでしょう.ゴミは然るべきところに捨ててくださいね.

今日は晴れているので,そろそろあのマンションの影から月が昇るところを見られると思います.
あ,こんなところに新しいパン屋がオープンするみたいです.

ところで「動物の絵」は見つかりましたか,そうですか.今日はゆっくり眠れると思います.
明日はマンホールがたくさん集まっているところを探してみましょう.それでは.

敬具

鏡川逍遥

これはいま書いている本のタイトル.書き始めて一年以上,進捗9割くらいのままで止まってしまっている.
古書店や図書館で地図や文献を集めて,現地へ出向いて裏を取ったというのに,構成や表現と次から次に不満が見つかって仕上げられずにいる.

メモみたいに雑にかけるのならどうとでもできるんだけれど,公開するものだし,金を取るものだし,人文科学に関することだし,おまけに自分の地元の郷土について書いてあるのだから,どうしても慎重になってしまう.

そもそも何について書こうと思ったんだっけな.2020年の春に僕は都落ちした.絵に描いたような都落ち.
ぼくは地元である高知県が嫌いなのだけれど,それは知りすぎているからこそである.県最大のローカルメディアで記事を書き,すべての市町村を自転車で走破した.玉水の赤線にまだ客引きがいることも,室戸岬の廃墟で野宿ができることも足で稼いだ.インターネットにも本にも載らない情報だ.
不登校のころや高校入学後は県外で過ごすことも多かったから,客観的だったり相対的な評価もできるようになってきた.けれどぼくはどうしても好きになれなかった.ファンとアンチは表裏一体みたいな話があるけれど,それと同じ.

話を戻そう.地元に戻ってからは,よく散歩をするようになった.
だいたい夕食後くらいに,家を出て,酒を飲んだり写真を撮りながら10~20kmくらい歩く.調子が良いと日の出を観るために海まで歩いて,街なかでモーニングを食べて帰ったりする.調子の良い月はアベレージで25kmくらい歩いているから散歩というよりは自傷の域かもしれない.

そんな中,お気に入りのエリアやルートが出来てきた.
旭町や上町は空襲で焼かれずにすんだ部分や,地形の緩急,それに暗渠や増改築を繰り返したような違法建築があるので歩いていて飽きない.
そのうち旭町を起点に散歩を行うようになっていった.街なかの散歩がマンネリ化してくると,目的は思索にふけることへとシフトして,川沿い,つまりは表題にある鏡川沿いを頻繁に歩くようになった.

夜の鏡川は暗い.かといってせせらぎが聞こえるわけでもなく,涼しくもない.
けれど,街明かりを裂くように浦戸湾へと続くその道はものを考えるには適していた.京都以外にも哲学の道はあったのだ.

思い返せば,鏡川との付き合いは長い.
小学生のころに塾をサボタージュして遊んでいたのも,中学校の帰りに気になる異性と歩いたのも,不登校のころに友達とサイクリングをしたのも鏡川.
高知市に生まれた以上,だれもが鏡川との接点を持っているに違いない.

そのうち思索の内訳の半分くらいが鏡川となり,本にしてやろうと思い立ったというわけ.
先に表題を決めることにした.やはり「散歩」とは異なる気がする.ルートがある程度あるのだから「徘徊」ではないと思ったし,「ぶらつく」だとワードが弱い.「跋渉」ほど活動的なものでもないなと思ったときに,植物園で買った澁澤龍彦の『フローラ逍遥』のことを思い出して,そこから逍遥を拝借させてもらうことにしたのだった.

明日の僕へ 早く続きを書いてください 昨日の僕より

テクテクライフ-ライフ

移動なんてすればするほど良い.躁のときはそう思っている.
今年は現時点で徒歩の移動が1016km,自転車で269km,車で3603km,バス・電車で2300km,飛行機で4815kmほど移動している.

’20末にリリースされたテクテクライフというゲームがある.これは日本全国を塗りつぶそうというのがコンセプトで,ぼくはいま日本の国土のうち12%を塗りつぶしている.それだけの距離を踏破したのかと訊かれればそんなことはなくて,電車や車での移動も塗りの対象になっている.

リリースされた直後なんかには,わざわざ自転車やバスで塗りに出かけたりして高知県の達成率が99%というところまで来たのだが,どこかに塗り残しがあるらしい.幸い課金すると塗り残しを教えてくれる機能があるのでそれを使ってみると,その大半が離島や離れ小島ではないか.

定期船があるところならともかく,無人島や岩礁くらいしかないような小島を塗るのは大変だ.
そういった遠隔地を塗るためには船かドローンかの二択があるが,諸々の煩雑な許可申請の手間を考えると船の方が望ましいことがわかる.
また,船にも船舶のみをチャーターするものと水夫がついてくるものがあり,なんどもゲームのために海へ出るのなら自分で小型船舶免許をとってしまった方が低コストで済む.10万円程度で取得できるし,詳細な海図を読める必要もない.普段ソシャゲに何十万円も課金をするタイプではないからこそ,この方向性の課金はありかもしれない.

IngressやPokemonGO,ドラクエウォークなど位置情報ゲームは無数にあるが,これほど現実での移動を要求してくるものは少ない気がする.
わざわざ少し足を伸ばして何駅か先まで行ってみたりとか,行きとは違う路線で帰ってみたりとか,ぼくはテクテクライフの奴隷なのかもしれない.

Slave to notification

それなりに売れた新書『スマホ脳』の中で「わたしたちは1日平均2600回スマホに触り、10分に1回手に取っている」と紹介されていた.僕はどうだろうか.
我流のデジタルデトックスみたいなものはたまに行っていて,集中モードを使うことで通知そのものを遠ざけて,Forestというポモドーロアプリを使うことで触れてはいけないという圧力を生み出して,酷いときにはSNSのAppやアカウントそのものを一時的に消したりする.しかし,それでも通知が鳴ると手にとってしまう.そして作業に戻るのには大変な時間と労力がかかる.

ぼくの仕事以外の返信が遅いのも,勉強の進捗がないのもぜんぶ通知のせいにしたいけれど,おそらく根本的に自分を律する意志が弱いんだろうと思う.ぴえん.

祖母も同じ病にかかっている.90歳でiPhoneデビューを果たし,使い方がわからないと言いながらも友達とLINEをするし,乗り換え案内や天気予報くらいなら一人で使いこなせるので令和のコンピュータおばあちゃんなのだが,すっかり通知の奴隷になってしまった.
いちばん”お行儀”を気にする年代だろうに,食事中に通知が鳴るとソワソワしてiPhoneを見てしまう.たいていニュースや天気なんだけど.

「通知」みたいな概念がこれまでにあったのかと想像を巡らせてみたけれど,ピンとくるものはなかった.

Tiktokの途切れずに次の動画へとスワイプしていくUI,Tinderの好みで左右に振り分けるUI,TwitterのTLをリロードするときのUI,どれもパチンコに喩えられることがある.むかし読んだ『依存症ビジネス』という本ではこうした仕組みのことを次のように紹介していた.「僕たちの生活はすぐに気分をよくしてくれるモノで満たされていて,ますます依存するように促されている.おまけにそうした快楽はヘロインなどの依存物質がもたらすものと同質」であると.

もしも,まだマグリットが存命なら「通知に飼われた人間」の絵を描くだろうな.

パラフレーズ

社会には理解語彙が著しく乏しい人間がいる.義務教育を受けてなお,口語での「傲慢」や「媒介」を理解できない社会人が存在している.先日,ある会話の中で「AがBの指標になりますよね」といった発言をした.「シヒョー……シヒョーってなんすか?」ぽかんとした顔で会話を遮るその姿は,さながら勝間和代を煽る西村ひろゆきである.奇しくも韻を踏んでいるのが憎たらしい.
百歩譲って「写像」であれば,相手を見て喋らなかった僕が悪い.しかし「指標」はどうか.語義が使用頻度(あるいは一般→特殊)順に並ぶような小学生向けの辞書や家庭用のコンパクトな辞書には絶対に載っている.日本語能力試験ならN3程度だろう.LDやSLDの可能性もあるので下手なことは言えないが,とても複雑な感情を抱く.

こういったケースでは,より抽象度の低い語に言い換えたり,例文を出すことでやり過ごすことができる.これはまだ楽なケース.

九月に93歳を迎える祖母は「巫蠱神仏が〜」なんて言葉を口語で使う一方で「フィールドワーク」が分からなかったりする.いろいろと考えた末に外来語全般を避けるという選択肢を取ることにした.日常的にカタカナーシ(カタカナ語を日本語のみで説明するゲーム)をプレイしているみたいでちょっと面白い.
祖母は新聞を読むし,ニュースも観るのである程度は現代っぽい言葉を使っても理解してくれる.それは助かっているのだが稀にトラップが存在する.
たとえば「バズる」「YouTube」など,オールドメディアで頻繁に使用される若者言葉やインターネット上の固有名詞.敢えて日本語で言い表そうとして何度失敗して気まずい空気になったことか.
年寄り扱いされたくない気持ちは分かるけれど,93歳は流石に年ですよ……(߹𖥦߹)

AR字幕

僕はなんというか人の話を聞いていない.聞く気はあるので,聞けていないと言った方が正しいのかもしれない.
たとえば雑踏の中やカフェなどで,隣にいる友人の話す言葉の80%くらいしか理解しておらず,あとは文脈頼りということが多々ある.
加えて信号待ちなどの時,隣にいる友人のみならず,背後や前に立つ人々の会話も満遍なく聞いてしまう.まるで(千と千尋の)オクサレ様からゴミを取り除いて河の神を助け出すように,周囲の人間の会話から構成されたワードキメラから友人の発言をサルベージする必要がある.これにはとても疲れる.

未診断の身でむやみに病名を出すのは気がひけるが,聴覚情報処理障害(以下APD)のそれとおおむね同じ症状だ.小渕(2015)によれば,APDの背景要因の半数以上はASDとADHD/ADDであり,僕はいずれにも該当する.ASDの認知知覚システムの特徴としてWeak central coherenceから説明されることが多いが,僕はこれには該当していない気がする(WAISを受けた時には何も言われなかったが,少なくとも自覚はない).
もっとも疑われるのはABR不良によるANSDで,事実として中脳付近に存在する腫瘍が傍証する.

まあ自覚的評価に基づいた推論など信頼性のかけらもないので建設的な話に切り替える.

以前から発話している人間の下に字幕を出してほしいと思っていた.
それは同音異義語の混同がきっかけで考えるようになったことで,音声認識の正確さが向上すればリアルタイム翻訳も可能だと考えていた.
考えている間に10年が経過して,音声認識もリアルタイム翻訳も当たり前のものになった.

そしてついには「See-Through Captions」が筑波大学のデジタルネイチャー研究室から発表され,欲しかった製品が形となったのだが,こいつは持ち運ぶことができない.
はやく眼鏡なりコンタクトレンズに字幕が表示される未来が訪れてほしいが,街中などで(人間の声を含む)多くのノイズから対象の音声だけを字幕化するのは難しそうだ.
視覚優位の人間にやさしい世界,はやく来てくれ.

フォントを変えるとステーキがおいしく感じる

ChatGPTの衝撃は凄まじいものであった.少なくとも僕の観測範囲では.
ソクラテス式問答法を試したり,てきとうなコードを書かせてみたりしたのちに,詩や短歌,川柳などを詠ませることにした.
僕はコンクリート・ポエトリーで知られる北園克衛や現代詩の小笠原鳥類などが好きなので,突拍子もない組み合わせの文字列が出来上がることを祈ってEnterを押した.

ここまで書いて思ったのだが,ChatGPTである必要がない.辞書から語をランダムで引っ張ってきて17字の短詩が生成されればそれで良い.

まあそれはそれとして,結果的に標題にあるような文字列が吐き出された.めちゃくちゃに面白い.
フォントを変えると印象が変わるだなんてことはインターネットの誕生のはるか前,活版印刷術の誕生後に登場した「ローマン体」の時点で分かっていた超のつくクリシェだとは思うが,語の組み合わせに心を奪われてしまった.

たとえば「ステーキ」の場合,明朝体より青柳衡山フォントの方が美味しそうだし,「寿司」の場合なら,たぬき油性マジックよりはんなり明朝の方が美味しそうだ.

本件とは少し話題が逸れるけれど,もう一つ文字の持つ印象についての話なので併記する.

かなり前にTwitterで「オッパイは硬いけどおっぱいは柔らかい」みたいなPostをした気がする.
女手の平仮名に対して片仮名は男手であったという誕生の経緯を踏まえると,上記のおっぱいの例にも合点がいく.浅学な上に裏も取っていないので戯言だけれど.
現在の片仮名は主に外国語や擬音語に用いられている.
「Plastic」には中性的な印象を持つが「プラスティック」では男性性を「ぷらすてぃっく」では女性性を感じる.竹内まりやのプラスティック・ラヴは男性性というか,ストイックさというか,冷たさを感じる.この話はジェンダー問題に突入しそうなので踵を返す.

文頭を大文字にしなかった場合の英文もおもしろい.
“rome was not built in a day”は「ろーまはいちにちにしてならず」のように読み辛く,頭の悪そうな印象を与えてしまうらしい.
英文の場合は分かち書きされているので,日本語が母語の僕にとっては可読性が低いとは思えない.

というか,これは僕のフェティシズムだけど,ひらがなでかかれている( ̳- ·̫ – ̳ˆ )◞ぶんしょうはかどくせいがひくいけれどかわいくみえるんだよな₍ᐢ. ̫.ᐢ₎

美味い飯,爽快な犯行,洒落た嘘

自分の人生に対して影響を与えた映画について考えたとき,あれだけ好きなSFというジャンルの作品があまり挙がらなかったので意外に思えた.
もちろん『インターステラー』だって『トランセンデンス』だって好きではあるんだけれど.

VCで働いていたときは『The Wolf of Wall Street』が中枢神経系にムチを打つのに役立った.血が湧くようなテンポと興奮.なんと言っても資本主義の暴力性の内側に入ったと錯覚するような快感を得られる.
程度の差はあれど日本にも菊池翔とかいうチャールズ・ポンジみたいな人間はいるし,いまこの瞬間にも気持ちの良いことをしている奴はいるんだろうなと思う.

全体を通して落ち着いている『Midnight in Paris』は良い嘘だった.あれはロマンスでも黄金期のパリへの懐古でもなくて,嘘についての映画だと思う.
創作のためにパリを歩く主人公がプジョーのランドレータイプ184に乗って0時の鐘と共に1920年代へタイムスリップして,名だたる芸術家たちと交流をして……といった映画なんだけど,創作なんて嘘だ.嘘を覚えて進化した僕らは,人間の脳でプロクルステスの寝台的に世界を解釈して,言葉を使って世界を構築している.だからは世界は嘘で組み上がっている.ぼくはそんな世界が好きだし,そんな創作をしていきたい.

中国だったり香港の映画はご飯を美味しそうに食べる描写が入る傾向がある.マナー講師がみれば上品とは言わないだろうその食べ方には熱みたいなものが込められていて,画面越しに温度感が伝わってくるような感覚がある.ぼく自身は親の教育のせいか紋切り型でからくり人形みたいな食べ方しかできない.あんなに自由で欲望の赴くままに,だけれども動物が獲物を捕食するのとは違って人間味のある食べ方をしてみたい.

つまり,いくら理性でSFが好きだとか知識や論理で能書きを垂れようと,美味しそうにご飯を食べて,笑顔で楽しく犯罪をこなして,どんなに汚いものもお洒落な嘘で包み込んで.そんな感覚的なものにぼくは惹かれるんだろうなと思う.
それにロマンチシズムが加われば最高の逃避行になるかもしれない.『Bonnie and Clyde』みたいにね.

Bonnie and Clyde

ほら,Catch Me If You Can.

嘘の形

人を欺くために使われるような「嘘」の形が変容しているような気がする.
インターネット上では現実以上に嘘が蔓延する.それもユーモアといった類ではないようなものだ.
’20くらいから,嘘をつくメリットとデメリットが一部の界隈で逆転してしまったように思う.

ぼくの性格の悪い趣味の一つに副業界隈や情報商材界隈のヲチというのがあるのだけれど,Tiktokという新たなカモの漁場が発展と共に彼らの”設定”のクオリティが落ちているのだ.もちろん情報の受け手のリテラシーが最大の問題ではあるんだけれど,フォロワーの獲得速度がある程度早ければ,嘘が捲れる前にフォロワーを商材やサロンで換金できてしまい,ビジネスネームと紐づく形の悪評が広まる前に転生してしまえば,また同じことが出来てしまう.

他にも,インフルエンサーが広告案件を受ける際に動画内で恣意的なミスリードを行って一時的に炎上したとしても,たいていはすぐに鎮火してしまい,もとの印象やフォロワー層にもよるが10日も経てば看過される.つまり嘘をついた方が得な世の中になってしまいつつあるということだ.

ぼくはユーモアの介在しない,悪意を持って人を欺くタイプの嘘はあまり増えてほしくない.創作などにおける嘘の使い手は増えてほしいけれど.

実を言うと検索エンジンはもうだめです.突然こんなこと言ってごめんね.でも本当です.数ヶ月から数十ヶ月後かけてChatGPTで生成されたゴミ記事が増えていきます.それが終わりの合図です.程なく大きめの地震が来るので気をつけて.それがやんだら,少しだけ間をおいて終わりがきます.

ChatGPTを楽観的に捉えすぎるのも,悲観的に捉えすぎるのもオーバーな感じがしてしまう.ただ言えるのは,今後は得た知識の真贋を判断できる人だけが得をするようになるということ.これは某匿名掲示板の生みの親が残した名言とは少し異なる.指す範囲が掲示板から現実世界まで拡張されているのだ.
まさかぼくたちがインターネットで生きるようになる前に,邪のインターネットが世界を侵食するなんて岩倉玲音が知ったら驚くだろう.

すでに露骨におかしなことを主張する人々が,インテリ層に呆れられて無視されつつ影響力を拡大させていっている.
検索エンジンが死んで,網羅性や一覧性が完全になくなって,無数の独立したコミュニティーが親和性の高い同じ属性のもののみとしか交わらなくなったとき,世界はどんな形になっているだろう.地球はまだ球体だろうか.

メタモルフォーゼ

いつかのカレー屋は変哲のないコーヒーチェーンになってしまったし,あの弁当屋はロフト付きのアパートになってしまった.
小学生のころの通学路からは田んぼが消えたし,大学のそばにあった喫茶店は台風の日からシャッターが降りたままでさ.
聞いたよ,神保町のあの店も潰れたらしいね.

神保町のミロンガ・ヌオーバ

借り物の言葉だけど,ぼくはいまだに中学12年生のままだよ.
いつだったか科学館でみた「光速で移動するとどうなるのか」って動画を思い出すなあ.パラパラ漫画みたいに風景がうつろって,ただ変わらずに観測者として真ん中にぼくがいるだけ.きっと最期には何かにぶつかって爆発してしまうだけの光.

編集後記

もし,この駄文の嵐をくぐり抜けてきた猛者がいるのなら,恐ろしい.
一緒に酒でも飲んでボドゲをしようよ.クトゥルフが分かるのならTRPGでもいいかもしれない.

それにしても「塵も積もれば山となる」というのは嘘で,おおきな塵の塊にしかならなかった.先人の嘘も恐ろしい.
そりゃあ僕だってこの作業量を他のことに充てられないかと考えたことはあるさ.でもね,これは生活における食前酒みたいなもので,明日への活力を増進させるためには欠かせないんだよ.

せっかく2022年のことをまとめるんだから,もっとまともな文章をまとめれば良かったと思うけれど,普段考えていることがこれくらい荒削りなのでしょうがない.ベストバイなんかをまとめようと思ったけれど,本当に誰も読んでいないのではと思った瞬間に書くのが面倒になってしまった.
そういえば,土星の輪っかがそろそろ見られなくなるらしい.なんとしてでも天体望遠鏡を買わねばね.

最後に最近考えていることを少しまとめる.

いまどき冷笑なんて流行らない.いまのユーモアはロマンティシズムだと思う.内なる世界のロマンチスト性を磨いていきたい.
ミニマリストは寂しいと思う.これからはマキシマリストの時代なんだ.愛おしいものを蒐集して,生活を情報で埋めて尽くしていこう.
それに殺伐としたインターネットは壊していこう.もっとポジティブな語彙を増やそうよ,オタク.メスをいれるなら批評に変えていけ.

みんなが「Chill Out」とか「ワンチャン」なんかでいたずらに時間を消費している間に,頑張ろう.
最終的には根性論なんだと思う.格差が広がって,すべてが可視化されたあとには透明になって本当にみえなくなるんだから,上へ上へと急ごう.

こういったアンビバレントな感情を両立させて育てていけるだけのキャパシティを常に確保しておきたいなと思う.

ぼくはね,好きなんだよ.散歩も,服も,映画も,現代美術も,詩も,針葉樹も,建築も,クイズも,お笑いも,音楽も,読書も,衒学も,食も,お前も.
ぜんぶ抱えていってやるからな2023.